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2014年2月10日月曜日

伊丹万作氏(俳優であり映画監督であった伊丹十三氏の父) 戦争責任者の問題 昭和二十一年










今度の戦争で「だまされていた」という。

皆がみな 口を揃えて「だまされていた」という。

私の知っている範囲では

「俺がだましたのだ」といった人間は まだ一人もいない。


いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で
一億の人間がだませるわけのものではない。

だましていた人間の数は、
一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。

日本人全体

夢中になつて互いに だましたり だまされたりしていたのだろうと思う。


戦争中の 末端行政の現われ方や、

新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、

さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような

民間の組織が

いかに熱心に かつ 
自発的にだます側に協力していたかを
思い出してみれば すぐにわかることである。 


たとえば、最も手近な服装の問題にしても、

ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないような
こっけいなことにしてしまったのは、

政府でも官庁でもなく、

むしろ国民自身だつたのである。



私のような病人は、
ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、

たまに外出するとき、

普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、

たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、

だれでもない、

親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

彼らは眉を逆立てて憤慨(ふんがい)するか、

ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、

自分の立場の補強に つとめていたのであろう。 


少なくとも戦争の期間を通じて、

だれが一番直接に、
そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、
苦しめつづけたかということを考えるとき、

だれの記憶にも すぐ蘇(よみがえ)ってくるのは、

--すぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、
あるいは郊外の百姓の顔であり、
あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの
小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり--

といつたように、

我々が日常的な生活を営むうえにおいて

いやでも接触しなければならない、
あらゆる身近な人々であつた。 


-----だますものだけでは 
       戦争は起らない。

だます者と 
だまされる者とが
そろわなければ

     戦争は起らない-----

ということになると、

戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)

当然両方にあるものと考えるほかは ないのである。 



だまされた者の罪は、

ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、

あんなにも造作なくだまされるほど

批判力を失い、
思考力を失い、

信念を失い、

家畜的な盲従に
自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた
国民全体の文化的無気力、無自覚無反省
無責任などが悪の本体なのである。 

このことは、過去の日本が、
外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で
打破することができなかつた事実、

個人の基本的人権さえも自力で つかみ得なかつた事実と
まつたくその本質を等しくするものである。 

そして、このことはまた、同時に

あのような専横と圧制を支配者にゆるした
国民の奴隷根性 
とも密接につながるものである。 

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、
すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。

また、悪を憤る精神の欠如であり、
道徳的無感覚である。

ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。 

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。

しかし 今まで

奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、

彼らの跳梁(ちょうりょう)を許した
自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、

日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という
一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる 
多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、

私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」と言って
平気でいられる国民なら、

おそらく今後も何度でもだまされるだろう。









伊丹万作様

ニッポンジンは何度も騙されております。

そして自らを反省せず 自浄するコトも無く
責任を他に転嫁し コジツケとイイワケに終始し
思考するコトなく 道徳観も正義感ももたない。

昔からナニも変わっていない。



「誰が悪い」「彼が悪い」と他人を罵るが
「自らが悪かった」と言うヒトは居ない。

自らの「快」と「楽」に流されて
「考える」というコトを放棄した。

そしていざコトが起これば
自らが流されて来たコトは棚に上げ
叩き易い標的に矛先を向け
自分の不満だけをぶつけ
問題を解決する為に
自らが犠牲になる気はサラサラ無い。

コレでクニが良くなるワケがありませんよね。

氏が嘆いていた頃とナニも変わっていないのです。



























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