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2015年3月10日火曜日

「福島事故を契機に原子力廃絶に向かうならばまだしも、福島のことがまるでなかったかのように、原発を進めてきた人は責任を取らず、この国は原発の再稼働、新設、輸出へと動いている」









「電気を使って生きるヒト全てが真剣に考えねばならないこと」

http://kodomozenkoku-news.blogspot.jp/2015/03/blog-post_6.html

2015年03月06日 毎日新聞 
http://mainichi.jp/shimen/news/20150306dde012040002000c.html


原発の危険性を40年以上にわたって指摘してきた京都大学原子炉実験所(大阪府熊取町)の
小出裕章助教(65)が今月末の定年退職を前に、2月27日、実験所内の自主講座で最終講義をした。
豊富な知識と分かりやすい語り口から小出さんは、東京電力福島第1原発事故以降、
全国での講演やラジオ番組へと引っ張りだこだった。
最終講義のテーマは「原子力廃絶までの道程(みちのり)」。
その詳細をお届けしたい。

 ◇4年たっても見えない現場

小出さんは1974年に助手(現助教)として実験所に入所。
原発に批判的な同僚と80年に「原子力安全問題ゼミ」を作り、
「熊取の6人組」などと呼ばれた。
小出さんの最終講義となった今回のゼミは111回目。
北海道から九州まで、退職を知った約140人が詰めかけ、
部屋から人があふれたため別室にモニター中継した。

福島原発の現状をこう切り出した。
「事故の収束なんてとんでもない。肝心な現場が見えず、
溶け落ちた核燃料などの炉心は、いまだにどこにどのような状態で存在するのか分からない。
人が近づくと即死するほどの放射能があるからです。
こんなに過酷な事故は、発電所では、原発でしか起こらない。
4年たっても原子炉の現場に立ち入ることができないのです」

膨大な「汚染水問題」で政府が対策に本腰を入れたのは2013年夏だったが、
小出さんはその2年前の11年5月、ラジオ番組で地下に遮水壁を張り巡らせるよう主張していた。
講義では、そこで働く作業員にも目を向けた。
「この4年間は、核燃料をこれ以上溶かさないようにしようとひたすら水をかけ続けた。
水は当然、汚染水になり、50万トンもがタンクに詰められている。
今や、敷地内は放射能の沼のような状態。
そこで苦闘する7000人近くの労働者は、
きちんとした仕事をしようとすれば大量に被ばくしてしまうため、
タンクからの水漏れの対応すら難しい。
現場を担っているのは下請け労働者たちで、
放射能を閉じ込める作業を今後何十年も続けなければならない」

 ◇被ばくから子どもたち守りたい

原発の敷地外に散った放射能の汚染はどんなものか。
小出さんは、原子炉実験所で長年従事してきた放射性廃棄物の管理業務での経験を基に語った。

「政府が避難指示している地域は、到底人が住めない地域です。
琵琶湖の面積の1・5倍に当たる約1000平方キロが無人地帯なのです。
避難するということは根こそぎ生活を奪われ、流浪化することであり、いまも10万もの人が帰れないでいる」

避難指示区域よりさらに広大な地域の汚染の深刻さを説明するのに、職場での規制について話した。

「放射性物質を取り扱える場所は、
法律で放射線管理区域に限定されている。
一般人が立ち入れない場所であり、私だってここに入れば、水を飲んでも食事をしてもダメ。
管理区域から出る前にドアがあって、汚染検査をしないと開かない。
その基準値は1平方メートル当たり4万ベクレル。
私はこの法を守り、
41年間、管理区域外に汚染したものを持ち出して人々を被ばくさせないように細心の注意を払ってきた」

小出さんは言葉を大切にする。
「放射性廃棄物」と言わず、「放射性廃物」と呼ぶ。
放射性物質はその毒のために棄(す)てられないという考えからだ。
所内で「当番の月」が回ってくると、実験で出た「放射性廃物」の廃液などの処理を担当し、
水から丁寧に放射性物質を捕捉しては、ドラム缶に詰める作業などを地道に続けてきたのだった。

ところが、その努力もむなしく思えるほど福島事故で放射性物質が飛び散った。
「避難指示区域よりもはるかに広い東北や関東の一部地域が、
放射線管理区域の基準以上の汚染レベルになった。
これは、日本政府が示した事実であり、風評でも何でもない。
そこに人々が普通に暮らしている。
それなのに誰も処罰されず、責任を取ろうとしない」

最も強調したのは「この広大な土地に子どもたちが生きている」ことだった。
「残念ながら私には時間を戻す力はない。
こんな事態を許してしまった私たち大人はどんなことをすべきか。
私がやりたいのはたったひとつ、これです」。
子どもたちを被ばくから守る構図の柚木ミサトさんのイラストを示した。

「子どもは、細胞分裂を繰り返してどんどん成長するので、放射線被ばくに大変敏感です。
子どもには全く責任がない。
大人は自分が被ばくしてでも子どもを守らなければならない。
放射能汚染はなくならないので除染ではなく、実際は“移染”ですが、
人が住んでいる現状では移染もしなければなりません」

そして、大人の責任に関連して、
70年前までの軍国主義の時代と今との共通点を指摘した。
「国民は戦争に協力し、神の国だから負けないと信じ込まされ、戦争を止めなかった。
ごく普通の人々が、戦争に反対する人を非国民と責めた。
戦後、多くの人は政府にだまされたと言い訳した。
原発では、推進派が決して事故なんて起こさないと言った。
いま、国民が推進派にだまされたとも言う。
今後、原子力に対してどう向き合うか、
私たちは未来の子どもたちから必ず問われる」

 ◇つけられなかった「落とし前」

講義の最後、「間違った人生だったが、それでも恵まれた人生だった」と振り返った。

小出さんは東京都台東区生まれで、都内の私立開成高校出身。
「間違った」というのは「原子力開発に夢を抱き、命をかけるため」、
原子核工学を学ぼうと1968年に東北大に進んだことを指す。
大学院でも学び続けたが、反対派に回った。

その理由も話した。

「原発は都会に建てず、危険性が過疎地に押しつけられ、
事故が起きなくても放射性物質の毒は約100万年隔離が必要。
それを子どもたちや未来に押しつける。
原子力を選択する限り、核兵器と縁が切れなくなる。
原子力は差別と平和の問題に関わっている」

だが「自分の愚かさに落とし前をつけるため」と、原子炉実験所という原子力の専門の場に残った。
「原子力の廃絶を目指したが、原子力を進める組織はあまりに巨大で、
私は敗北を続け、ついに福島事故が起きてしまった」

落とし前は「つけられなかった」と考えている。
「福島事故を契機に原子力廃絶に向かうならばまだしも、
福島のことがまるでなかったかのように、原発を進めてきた人は責任を取らず、
この国は原発の再稼働、新設、輸出へと動いている」からだ。

小出さんは原子炉実験所での41年間を助教のまま終える。
教授にも、准教授にも昇進しなかった。
でも反原発を公然と掲げる小出さんに学内での「迫害」はなかったと断言する。
それは「京大の独創性を重んじる学風に関係するかもしれない」とみる。
「(職務さえ果たせば)ずっとやりたいことができた。
全国で闘う仲間たち、熊取6人組の仲間にも恵まれた」と話を終えた。

退職後は「山歩きが好きだから」と信州(長野県)に移住するという。
「定年は社会的な制度だが、どんな生き物も年老いていつかは死ぬ。
それを自覚するための一里塚なんだろうなあと思う。
私も少しずつ引いていく。
原発事故で苦難の底にいる人のことを考えると、完全には引けないが、
4月から仙人になろうと思います」

講演は数を減らして引き受けるが、
推進派との論争、原発立地地域からの依頼、若者の依頼を優先するという。

最後のゼミは、「運動の支援を」という声と
「おんぶにだっこはいけない。みんなが小出さんにならなければ」
という声が交錯しながら、お開きとなった。

6人組のうち福島事故の汚染・被ばく調査をする今中哲二助教(64)が現役のしんがりだ。
1年後には定年退職を迎え、京大原子炉実験所という学問の現場から全員がいなくなる。
小出さんは「今中さんの退職前には、最後の安全ゼミを私が呼びかけます」と力を込めて宣言した。
それは「6人組の火は、簡単には消えない」と告げたように聞こえた。


































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